戸塚宿が出来たのは1604年で、日本橋から丁度良い距離にある宿泊地として最盛期には40軒ほどの旅籠があったそうです。 ここ、株式会社トビーズの場所に「綿吉(わたきち)」という旅籠がありました。上の写真は江戸時代末期のもので、綿吉だけが外国人が泊まることを許されたため「TOTSUKA WATAYA」というローマ字の看板が架かっています。 実はこの写真は、宿泊したカーティスさんという人のひ孫が「横浜開港100年祭」の時に神奈川新聞に寄贈した100枚程の写真の中の1枚で、これは鈴木さんの写真ではないかということで連絡してきたものです。
横浜には開国前でも多くの外国人がいて、上海で仕事をしていたイギリス人の料理人などが仕事がなくなると横浜にやって来たそうです。その中の1人にカーティスさんがいて、江戸に行こうとしたが戸塚で足止めを食い、綿吉にしばらく滞在していました。そこに居たお手伝いの女性と懇意になってこの地に住むことになったのです。 その後、カーティスさんは外国人の食料用に豚を飼い始め、ハム工場を始めました。これが「鎌倉ハム」の発祥になったのです。
戦後の戸塚での暮らしを語る
トビーズ会長・鈴木武道さん
当時、国道1号線を挟んだトビーズの反対側は田んぼで年に2回くらい柏尾川が氾濫してボートで移動した経験があります。今の「イオン」の場所に以前「ダイエー」がありましたが、駐車場にボートがあったのを覚えています。小学生になって初めてボートが置いてある理由を知りました。
今の日立がある場所に以前競馬場があり、その敷地内に東戸塚小学校と、反対側に米軍の「カマボコ兵舎」と呼ばれる建物が並んでいて、給食の時に米軍から脱脂粉乳と肝油を貰ったのを覚えています。 私の姉はPX(米軍購買部)でアルバイトをしていたのですが、中で安く物が買えたし格好の良い服やチョコレートも手に入りましたよ。
ある意味、米軍がいたから戸塚は割合豊かな街だったとも言えます。(2023年取材・菅田)




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